おぐら庵

誰かのなにかになったら

うれしかった話

あんみつみかんです

 

前回は病気以外に辛かった話について書きました

 

今回はそんな中でもうれしかった話をしたいなと思います。

 

病棟での生活では看護婦さん(あくまで当時の呼び方で今回も書きますね)

にサポートしてもらうことも多くありますが

その中でも楽しく会話できたり、様子を見に来てくれている間に

ゲームを一緒に見て、笑ってくれたり絵を描いたり

優しい看護婦さんも多かったです。仕事をしながらって大変ですよね。

文字でいうのは簡単ですが、本当に大変な仕事だと思います。

 

そんな中でも一人の看護婦さんととっても仲良くなりました。

両親もとっても仲良くしていてその看護婦さんは退院した後も

家に遊びに来てくれたりしました。愛犬のポメラニアンを連れて来てくれたり。

身体を拭くのを手伝ってくれる時、足湯だけはバケツでできたので

それをやってくれていたのですが、その作業が好きと言っていて

よくやっていてくれました。それも気持ちよかったなぁ。

 

院内学級に入学して学校の先生と仲良くなった時も嬉しかった。

院内学級の先生は基本一対一で授業をしてくれていました。

最初は男の先生で、仲良くなれるかなぁと不安だったのですが

すごく優しい先生で、体調を第一に考えてくれていました。

学校に行けない時は手紙をくれて、すごくいい先生でした。

勉強だけじゃなく、工作好きだった私に合わせて色んなものを

一緒に作ってくれたりしていました。

…あの先生元気かな 今度手紙書いてみたいな。

住所わかるかな…。

 

二度目に入院した時は、別の先生が担任になってくれました。

その先生は女の先生で元気でハツラツとしていて

その人も工作好きな私と一緒に、物を作ってくれたり

一緒に、紙をすいて作ったりするのを提案してくれて

それがすごく面白かったのを今でも覚えています。

その先生は小学校の卒業式にも来てくれて、泣いてくれていました。

この先生にもお手紙書きたいな。

 

毎週水曜日だったかなぁ…今思えばすごいなって思うんですけど

毎週毎週、大学生のボランティアの方々が遊びに来てくれていたんです。

夕飯の前に工作を考えて来てくれてそれを大学生の皆さんと作る。

今調べてみたんですが今でも活動されているようです。

(私が入院していた小児科病棟はもう閉鎖されているので

小児科病棟に訪問してくれる活動は行ってないと思います)

書いても大丈夫かな。ずんがりセツルメントさん、です。

北が舞台と以前書きましたが、そう、北海道です。

もしこれを検索などで見たサークルの方がいたら

約20年位前、あなたの先輩達が病気の子ども達を笑顔にしていました。

あの時はありがとうございました。皆、毎週たのしみにしていました。

私は、毎週書かれている通信や、工作の説明が書いてある紙が好きでした。

 

自分が同じ年齢だったら、そんな活動できただろうか。

すごいなぁ。エネルギッシュだなぁ。

 

同じく病棟で過ごしていた年上のお兄さん、お姉さん、

一緒にゲームをしたりトランプをしたり

すごく楽しかった。今何してるのかな。元気だといいな。

 

病棟でクリスマス会がありました

私はミニモニ。ミニモニ。テレフォンリンリンリンのダンスで

辻ちゃん役で踊ることになってました。ですが…

隔離期間だったんですよね。このままじゃ出られない。

練習を沢山してかなり完璧になってたんですよ。

…看護婦さんが掛け合ってくれて!

「あんみつみかんちゃんがいないと、ミニモニ。になれないんです!」

って強く言ってくれてマスクをして、だったら!って。

あの時はすごく嬉しかった。踊り切りましたよ!

かぶったカツラも茶髪でロングでまいてあって、嬉しかったなぁ(笑)

 

バザーを行ってくれたこともありました。

看護婦さん達の持ち物や、医師の持ち物(笑)

それを真似して、院内学級でもバザーをしました。

工作で作ったものを皆が買っていってくれる。嬉しかったなぁ。

 

ガチャピンとムック、Pちゃんが遊びに来てくれたこともありました!

これは本物で(笑)実際に歌のイベントステージが行われて

喋っていたので声優さ((おっとっと、とにかく本物が来ていまして

ポンキッキーの楽曲を歌ってくれました。あれも今思えば誰かが

招致?してくれたのかなぁ…すごいなぁ。

ポンキッキーすごく好きだったので嬉しかった!

 

病院の裏にあった、看護学校から研修生が来ていたこともありました。

その子、その子に担当としてついてくれて

2週間くらいだったかな?一緒に生活します。

私は二度入院したので2人いましたが、その中でも最初の方が

今でもやりとりできるくらい仲が良くなって。

その方は保健室の先生になりました。

今でもあの時のことを覚えてくれていて。

また会いたいなぁ。

 

病棟の婦長さんが あんまり子どもたちが病院食を食べられないのは

大人でも味がないと思うような質素なものだからかも、と

給食とかけあってくれて、アンケートをとり月に1度

美味しい子どもメニューを出してくれました。

食べ切れた記憶はあんまりないのですが(

その取り組みが嬉しかったな。

 

こんなふうに沢山いいこともあった

書き起こすと人とのつながりが多いですね。

 

普通に学校に行っていれば、友達と遊ぶ機会に恵まれていたでしょう。

でも、人との出会いや出来事などで得た物も多いかなと思えました。

 

次回は外泊について書こうかなと思います。

 

 

病気以外に痛かった話

あんみつみかんです

 

前回は副作用について書きました

 

今回は病気以外にきつかった話をしたいなと思います。

 

まず今回は愚痴みたいな話が多くなるかなと思います。

一生懸命やってくださっていた、ということを念頭に理解しているつもりですが

どうしても当時の医療従事者の皆さんに 子どもの気持ちで言いたいことが

あるので一応、ここで吐き出そうと思います。 

当時の、ですからね。そして子どもの時に思ったことですので

多めにみてください(

 

え~まず 入院したことがある人はわかるかと思うのですが

私の入院していた病院は病棟の看護婦さん(当時の言い方で言うと)が

2チームくらいに分かれていて、大部屋担当チームと個室担当チームが

あったように感じます。看護婦さん達の年代はバラバラで

多くは20代そして、50代?60代?くらいに看護婦さんが2人いました。

小児科の子どもたちは病気で体調が悪い、とすると機嫌も悪い。

正直な感情のまま医療従事の皆さんに対応してきます。

辛い仕事だとも思います。よくなってほしい、と思っていてくれると思いますが

子どもたちは 人 を見ていることが多いのです。

 

わかるように言ってしまうと、20代の看護婦さん達は子どもに寄り添う態度、

50代?60代?の看護婦さん達は嫌味たらしい感じでした。

子ども時代の受け取り方ですけどもね、何度もいいますが。

 

一日の始まりに、今日誰が担当するか挨拶に回ってきます。

その二人が当たった時には最悪((

一日のモチベーションも低いったらないです。

体調がどうだとか、トイレの回数が少ないだとか、熱はどうだ、

もっとご飯を食べたらどうだとか、薬を飲んでいても薬は大事だ、

とか言ってくるわけです。

 

どれも言ってくれる優しいことばかもしれませんね。

でも毎日だとどうでしょうか。

 

それに、看護婦さんたちは子どもだちがお風呂に入れない時

身体を拭くのを手伝ってくれるのですが

手がガサガサしていてすごく痛かったのを覚えています。

タオルをほぐして自分で拭く、それでいいのに

拭いてくるんですよね。痛いんです。

 

極め付け これはもう絶対に忘れないし許さない。

前にIVHの話をしました。覚えていますか?

点滴の管は長かった - おぐら庵 ここからどうぞ

これは週2でイソジンをしみこませた脱脂綿で消毒するのですが

それを例の二人のうちの一人がやってくれていた時のことです。

管が長いですから巻き取って点滴の棒にかけたりするんですが

その時たれていたんですよね。ええ。

 

その人が足をひっかけて。

ええ。糸で止めてある点滴の針を

 

ビッ

 

とめてある糸、中心静脈に入っている針

全部がビッ、と足で引っ張られました。

 

まぁ~~~~~~大変なことになりました。

処置室から聞こえる泣き叫ぶ声 駆けつける他の看護婦さん、

医者 迅速な対応が行われ

もう一度IVHの処置が行われました。

 

何度も何度も謝ってもらいました

でも 許せない。元々嫌いだったのもあったけど

点滴の管を足にひっかけるなんてミス 許せないです。

その後その人はもう私の担当にはつきませんでした。

 

あとは病棟医院長だかの総回診。これもきつかった。

週に一回、知らないおじいさんに診察されるのがすごく嫌だった。

特に触診。よくも知らないくせに毎週毎週、

全員を待たせて、病棟の医者を引き連れて

なんなんだろうな、って思ってました。

「よさそうですね」は??なにが???

 

毎日、13時~15時までの安静時間という時間もつらかった。

テレビ禁止、ゲーム禁止、プレイルーム(遊び場所)禁止、

面会禁止、お絵かき禁止、遊ぶの禁止…いやわかりますよ

安静にしてほしいのはわかる でも誰も走り回ったりしてるわけでもない。

注意されるんですよね。うん。お昼寝してほしいんだろうけど。

でも、お昼寝をそのあとも続けてたら

いつまで寝てるのかな~って付き添いの人に言う。

う~ん、ロボットじゃないんだから…。って思ってました。

 

小児科でしたが、中学生、高校生のお兄さん、お姉さんもいました。

今思えば、きつかったろうな。あの子どもが沢山の空間にずっといるって。

その中でも髪を染めていた金髪の中学生お姉さんがいたんですよね。

そのお姉さんがノートパソコンで絵を描いていたんですよね。

私も絵を描くんですがそれがすっごく楽しそうに見えて。

今思えばとっても高価なおねだりでした。父はそれで楽しめるなら、と

用意してくれました。今思えば本当になんて高価なおねだり…。

 

私はそのお姉さんと一緒にパソコンで絵のお話をしたり

ゲームを貸してくれたり、楽しく過ごしていました。

ですが病棟から、あまり高価な物を買い与えないでほしいと言われました。

他の子たちもほしがるから、という理由だそうです。

実際に誰かが誰かの親にねだっているのを目撃はしていません。

そのパソコンはオンラインでもなく絵をデジタルで書くだけのもので

実際買ったのは個室だったので誰も目撃していません。

(中学生のお姉さんは院内学級でも使っていたので皆はみている)

 

父が対応してくれました。

 

「病棟で従事している皆さんは ここを出ることが出来る。

一歩出てしまえば 好きなことが出来る。

好きな物を買える。好きなものを食べられる。

病気と闘う子どもたちはできません。

病棟の中で可能な限り出来る事さえ 制限するのですか?」

 

そのような内容(確認しているわけではないので口頭で聞いた記憶ですが)

をメールすることで

そのあと何も言われることはありませんでした。

 

書き起こしていればわがままだったところもあるかもしれません。

医療従事者の方から見たら うわ~やだな~と思うところもあると思います。

患者からするとこういうのが嫌だったという感じだけで受け止めてもらえたら…((

 

次回はこれが嬉しかった、というのを書きます。

すみませんねぇ…愚痴を…(

 

 

 

副作用の話

あんみつみかんです

 

前回は抗癌剤治療による副作用 脱毛について書きました

 

今回はその他にもあった副作用についてお話したいなと思います。

 

普段、風邪や体調を崩したときに飲むお薬でも

お腹を下したりちょっと気持ち悪くなったりすることもありますよね。

 

癌治療に使われる薬、今思えば結構な副作用が起きていたなと思います。

脱毛はよくあげられる代表的なものかと思いますので今回は他にもあった

自分にあらわれたものを書きたいなと思います。

 

まずは発熱。これが結構すごかったですね。

常に38.5℃~42.0℃がでてました。

すごい寒気に襲われます。風邪で熱が出た時に寒気がきたりしますよね。

あれの南極版だと思ってください(

自分の体温が高すぎるので部屋の空気を冷たく感じて

毛布、電気毛布、タオルケット、掛布団にくるまっていても寒い

もぐって、湯たんぽを抱きます。足が氷のように冷たい。

母が手で温めてくれます。きっと母からしたら熱かったろうなぁ。

 

38.5℃を越えると解熱剤を使うことが出来ます。

間をあけなくてはいけないのですが

そこを越えると使うことが出来、熱が下がれば一気に熱くなり

布団から出てきます(笑)そうすると今度はご飯が食べられるようになります。

まぁ、これは風邪などで起こる発熱ではないので熱が下がればひとまず

動けるようになるのですが 副作用ですのでまた上がります。

 

また布団つむりになる。それの繰り返し。

本当なら体を冷やせればいいのですが寒すぎて無理です。

 

他に辛かった副作用は

目の痛み、です。光を強く受けてしまう?瞳孔がひらく?というか

とにかく目がすごく痛い。開けていられません。

暗ければいい、というものでもなく。ただ、痛い。

目がずっとキリキリキリキリ…目薬をしてもききません。

あれってなんだったんだろう。毎日入院しているなかで

ビデオをみたり、ゲームをしたり、絵を描いたり、

それが目が痛いということで全て出来ない。

出来ないし、痛い。何日間か続きます。

 

元々お腹が弱いので、お腹を下したりすることも

あったかと思いますがそれは副作用かはわからず(

足も元々弱くて、血流が悪くなるとだるさが痛みと脳が誤認して

ずっと痛くなったりしていました。

 

特に辛かったのはこの2つの副作用

これが治療の間にやってきます。

 

次回はその他にも辛かった病気以外の事について書きます。

 

 

 

髪が抜けた話

あんみつみかんです。

 

前回は第一回目の治療が終わったところまで話したと思います。

 

抗癌剤治療の副作用で皆さんも結構イメージあると思うんですが

今回は髪の毛が抜けた話をしたいと思います。

これで結構悩んだりする人も多いかなって思います。

 

これは個人差もあるんだと思うのですが

自分は最初、説明されていなくて突然寝ていたら枕にごっそり髪が

抜け落ちてた記憶があります。説明しておきなさいよって思うんですけど(

 

え、え、って困惑してたら確か母が

「治療をがんばっている証だよ、薬が効いてる証拠だよ」みたいな

ことを言っていたような気がします。(おぼろげ)

 

ブログの最初の方でも書いたんですが私は日焼けも気にせず外を遊ぶ

少女だったのでまず抜け始めたところの分け目は日に焼けていて

日焼けの線がありましたね(笑)笑えないんですけど

 

髪の量が多かったので最初こそ抜け毛が多く気になるものの

段々うすくなっていく髪の毛、どんどん坊主になる自分

無菌室にはシャワーがついていたので鏡があるんですよね。

見えるんです。ずっと。どんどん髪がなくなっていく自分が。

正直とても辛かった。触ればなんの抵抗もなくバラバラと抜け落ちる。

寝ても枕との摩擦で抜け落ちる。毛穴と髪がくっついているのりのようなものが

なくなってしまうって説明されたんですけど、その知識であってるかはわかりません。

でもほんっとに痛みもなくなんにも感じないでばらっばら落ちます。

毎日コロコロをずっとかけてる、そんな感じです。

先に髪の毛切る人の気持ち、わからなくはない。

 

その鏡が見えなくなるように、父が絵を描いてその紙を鏡に

貼ってくれたんですよね。すごく気持ちが楽になりました。

 

看護師さん達が教えてくれたのは、帽子、バンダナをつけること。

一時的に見えなくなる。たったそれだけのことですが本当に気が紛れるんです。

よく見ますよね。実際の入院患者さんや、ドラマや映画とかでも。

あれは寒さ対策もあるんでしょうけど、そういう役目もあるんじゃないかな。

お気に入りのバンダナや、お見舞いにもらった物を付ける。

病棟皆が髪が抜けるわけじゃない。他の子に見られたくない。

眉毛も抜けちゃうからこわくなっちゃうんですよね(

寝るときは外すんですけど、最初の頃は外してなかった気がするなぁ。

 

余談ですけど、小児科病棟だったので小さい子も多く

寝る前にいきなり仕切りのカーテンをガバッとあけられ

「あんみつみかんちゃん髪ない~!」なんて言われて

ぶちぎれたこともありました((許されませんよ。((

 

髪の毛は最初の頃襟足だけ残りました。その後、抜けた髪と半端に残った髪が

絡まってしまい毛玉を飼っていましたね。((

母がゆっくり丁寧に取り除いてくれたのですがその時にはもう

全部抜け落ちてもいいな、という気分でした。くりくり坊主が可愛い、そんな感じ。

 

そうしてくりくりの坊主になった私はやっと自分が病気になったんだと

自覚します。薬の副作用は他にもあります。それはまた次回お話しますが。

 

ここで髪関係のことで言っておきたいことがあります。

 

この後何度か治療を繰り返し私に外泊の許可がでるのですが

私は外に行くときに カツラ を被ることにしました。

両親が調べて借りてくれたのですが

夏目雅子ひまわり基金」さんが無償でカツラを貸してくださるのです。

 

夏目雅子さんを知らない方もいらっしゃるかもしれないのですが

女優(俳優)さんで27歳の時に急性骨髄性白血病で亡くなったそうです。

脱毛に悩む全ての患者さんへと、活動してくださっている方々がいらっしゃるのです。

今調べてみたら、現在も活動されていらっしゃいますのでリンクをお貼りします。

 

夏目雅子ひまわり基金 Official Site

 

借りたカツラは退院してからも学校へ行くのに使用させていただいていました。

当時小学生だった私ですが 周りも気づいていたかもしれません。

それでもあるとないとでは全然違います。

 

病気は精神的にもダメージを与えてくるんですよね。

失った物も多いですが、得た物もある。そう思えるのは

今生きていられるからでしょう。

 

もし今脱毛に苦しんでいる人がいたら

個人差はあるかもですが髪はまた生えてくる。

カツラ、ウィッグ、植毛、なんでもある!!

苦しいと思いますが、帽子やバンダナを選ぶ楽しさを

堪能してください。カツラで好きな髪型を楽しんでください!

頭のツボを押してリラックスしてください(

 

私は最初、直毛だったのですが退院した後に生えてきた髪の毛は

くるっくるの天然パーマになってしまいました。

ですが、再発してまた抜けて、退院して生えてきた時には

また直毛に。不思議ですねぇ。

 

次回は他にも体験した副作用について書きたいと思います。

 

 

治療の辛さ

あんみつみかんです。

 

前回は治療が開始されたことと父、母について書きました。

 

治療が開始されて気持ち悪くなることは度々あっても

どこかが痛い、とかいうことはありませんでした。

 

第一回目の治療(薬剤投与)が終わって

数日すると私の身体に変化が訪れます。

採血検査をして、一人の部屋に移されます。

無菌室です。常にゴーゴーと風が吹いていて

ビニールのカーテンで仕切られています。トイレやシャワーもついていて

テレビ、ベットも同じ空間にあります。

赤血球、白血球、血小板の数値が下がり、感染病を防止するため…だったかな?

 

ここで骨髄性白血病について触れておこうかなと思います。

そもそもどんな病気なのか。

 

皆さんそもそも血がどうやって作られているかご存知ですか?

自分も調べてみたんですけど(

骨髄というものは骨の中にあって造血作用があるんです。

つまり血をつくる工場なんですよね。その骨髄が間違った形の細胞を

生み出してしまった時、訂正、修正していけている間は大丈夫なんですけど

訂正、修正、出来ず、そればかりを作ってしまう、これが癌です。

簡単にいうと、って感じなんですけどね。

 

一度数値がさがり、徐々に軌道修正を薬ではかっていく感じなのかな

当時治療について聞いてなかったので完全に憶測なんですけど。

 

その時ですね 髪が抜け始めました。

よくドラマなんかで見ますよね。抗癌剤治療による抜け毛。

 

次回はそれについてお話します。

 

つづく。

 

 

治療が始まる

あんみつみかんです。

 

前回は点滴について書きました。

 

いよいよ治療が開始されます。

 

薬が投与されている時、気持ち悪くなることもありましたが

何かを一生懸命やったり、ということはなく毎日病棟をお散歩したり

ゲームをしたり、絵を描いたりしているだけでした。

 

当時は父が毎週水曜日と週末、母と付添を交代してくれていました。

泊りがけでした。今思うと、なんてすごい人なんだろうか、そう思います。

妻の為に会社を毎週休ませてもらい付添を交代し

週末も看病してくれて。それまであまり父のことを知らなかったのですが

付添にきてくれたら一緒に遊んだり、ビデオを見たり、

好きなご飯を作って持ってきてくれたり、優しい父でした。

私が錠剤の薬が飲めないので粉にしてもらっていたら

その薬が飲めたらシールが貼れる「おくすり帳」を作って来てくれたり

(キャラクターも印刷してあってシールもかわいいものを買ってきてくれました)

私は当時 ミニモニ。の大ファンだったのでミニモニ。の写真を印刷して

はがきを送って来てくれたりと本当に頭があがりません。

 

母もずっと付添をしてくれていて毎日洗濯、買い物、散歩に付き合ってくれたり

話相手をしてくれたり、看病はもちろんでしたが沢山世話をしてもらいました。

私がイライラしていたらなだめたりしてくれていました。

 

なのにその母に私は「お母さんみたいになりたくない」と言ったことがありました。

というのも、小児病棟にはたくさんの付添のお母さんたちがいて

すごくスリムなお母さんがいたんですよね。赤ちゃんの付添の方で。

今思えば若くてスリムというだけで何も知らない人なのですが

今は母のように子どもを受け入れて、励ます、そんな女性になりたいと思います。

今思えば、若干の反抗期?思春期?だったのかなぁ。9歳なのですが。

友達のかわいい消しゴムを借りパクしちゃった((ことも泣きながら懺悔したり(

(退院してからちゃんと返しましたごめんね)

 

我が子が小児癌になった、というのは

当時本当に心細かったろうなと思います。

周りに同じく我が子が病気の親がたくさんいた。

だけど、それは皆それぞれの病気で。

いつどうなってしまうのかなんて、わからない。

漠然とした不安もあったろうなと、今なら思えます。

 

治療の辛さはここから

 

つづきます。

 

点滴の管は長かった

あんみつみかんです。

 

前回は検査について書きました。つづきです。

 

治療の準備がどんどん進みます。

私は前回言った、マルク(骨髄穿刺)の検査を前の日に看護師さんに

言われたらずっと怖くて泣きっぱなしでした。

看護師さんに前日に言わないように頼んであったのに

言ってくる看護師もいました。なぜだ(

 

今でも傷痕として残っているのですが

IVHというものもしました。調べてみると

中心静脈に点滴のカテーテル(管)を刺してそこから点滴をうけます。

位置でいうと右側の鎖骨の下です。(左のこともあります。)

 

ずっと手の甲や、手首に点滴していたのですが

治療となると大きな血管の方がいいと説明されました。

 

処置室で行われる処置で、麻酔をするのですが頭部が近い為眠ってしまいました。

医師が「指をみて」といって下に引っ張り、上にスワイプするような動作をすると

私はまっ白な世界へ飛びました。ずっと高速のジェットコースターに乗っている

そんな感覚の世界。乗り物酔いをしている感覚になりずっと吐き続けている。

目が覚めると本当に吐いてるんですよね(笑)(笑えない)

横を向いてずっと吐き続けていました。

 

私を最初に担当したのは研修医で、今思えば一生懸命やってくれていたと思います。

それでも当時子どもだった私は段々医師の事が嫌いになっていってしまうんですけども

申し訳ないと思いつつ…(苦笑)

 

無事にIVHの処置が完了し、その点滴は糸で固定されています。

引っ張られないよう、長い管でつながれています。

毎週2回の消毒 今でも残る傷痕。最早勲章ですけどもね。

 

つづきます。